空が赤から深い青のグラデーションに変わる頃、森沢は幾分緊張しながらある一軒の家の呼び鈴を鳴らした。 ほどなく家の中から聞こえた返答の声。賑やかな音が近づくにつれ、森沢の緊張は一層高まった。 この家の婦人とは仲がよかったし、主にも一度食事に来てくださいと誘われてはいた。 だがそれはそれ。初めて伺う家で夕食をご馳走になるのだ。何か粗相をしでかしはしないだろうかと不安にもなるし…。 そこで森沢は唐突に気づく。 (しまったー!お土産持参してくるの忘れてるっ?!うわー、言ってるそばからどうしよう…なにか、なにかなかったかなぁ…) 扉の前で青くなりながらあちこち探ってみるものの、出てきたのはネコリスごはんの残りのみ。 「これを琥珀くんに…はさすがになぁ…」 こうなったら手ぶらでごめんなさいと潔く言うしかない。そう覚悟を決めた時、ちょうど目の前の扉が開いた。 「森沢さんこんばんはいらっしゃいませうわー来てくれてすっごい嬉しいですお待ちしてましたー!!」 あおひとは満面の笑みで一気に言い切ると、勢いそのままに森沢に抱きつく。 「こ…こんばんは。ごめんなさい、今日手ぶらで来ちゃって…」 「いやいやいや、そんなお気遣いなくですよー。ささ、中にどうぞっ」 来客用のスリッパをはいてリビングへと通される。 ふと見れば子供たちの瞳に見慣れぬ来訪者へ対する不信感と、それ以上の好奇心の色が浮かんでいた。 「それじゃあ改めまして。ようこそいらっしゃいましたー」 言うやいなや、あおひとに抱きつかれた。 「え、えーっと…」 もぎゅもぎゅ 「あおひとさーん…」 もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ… 「…………あぅ」 森沢、照れた。 そんな事はおかまいなしにひたすらもぎゅる母の姿を見て、真っ先に近づいてきたのはひなぎくであった。とてとて歩いてきて勢いそのままにぼすっと抱きつく。 一人が抱きつけば後は雪崩のごとく、翡翠、柘榴、コーラルが輪に加わり、しまいには琥珀までも森沢の足元に擦り寄っている。 見事なもぎゅだまりの完成であった。 一人残された忠孝はキッチンの奥から顔を出すと「僕が参加したら後で奥さんに叱られそうですからね」などと呟き、一枚だけデジカメに収めるとまた奥へと引っ込んで行った。 「うし。元気も補充したので準備に戻りますね。さ、みんなー。後は頼みましたよ?」 あおひとは満足気に笑うと、子供たちの頭を撫でてキッチンへと去っていく。その後ろを翡翠とひなぎくがついていった。 「森沢のお姉さん、こちらへどうぞ」 コーラルが少し緊張気味にぺこりとお辞儀をし、まだ何も置かれていないテーブルへと案内する。 そこでは柘榴が眠たげな目をこすりながら、椅子を引いて待っていた。 (うわー。なんかこういう扱いって、新鮮かも…) 年若すぎる少年達のエスコートにこっそりと感動しながら椅子に腰掛けると、タイミングを見計らっていたのだろう。ひなぎくが水の入ったコップをテーブルに置いた。 「がすは、はいってないですって。おかあさんがいってました?」 「はい、ありがとう」 意味がよくわかっていないのかひなぎくは小首を傾げていたが、礼を告げられると嬉しそうに顔を輝かせ、森沢の膝の上に陣取った。 「え、えーっと…ひなぎく、ちゃん?」 「えへへー」 戸惑う森沢をよそにひなぎくは無邪気に笑うと、ぎゅーっと抱きついてきた。どうやら先ほどのもぎゅ大会で気にいったらしい。 (か…かわええええええええええっ!!!!っていうかこの反応、親御さんにそっくりだよー) 「森沢さんごめんなさいー」 「ははは。すみませんね、うちの娘が」 「や、いえいえ……うわぁ…」 夫妻の言葉に反応して視線を上げると、二人はこれでもかという量の料理を手にしていた。 「えーっと。これが鰹のたたき琥珀酢ゼリー和えで、こっちがスペアリブと野菜のオーブン焼き、まぐろとアボガドのマスタードドレッシングサラダですー」 「こちらが鮭のカレームニエル、鰆のクリームパスタ、それからスイートサワーシュリンプですね」 色とりどり、様々な料理に森沢の視線はせわしなく動いている。 (この二人…いや、この料理人たち、本気だ…っ!!) 「あ、ご飯は鯛めしが用意してありますからー。たくさん食べてくださいねっ」 かなり多すぎな気がしないでもないが、育ち盛りの男の子が三人と意外と大食漢の夫がいればこれくらいは平らげられるのだろう。 それに森沢自身、隣に立つ忠孝の手にしているスイートサワーの甘酸っぱい香りが鼻腔いっぱいに広がり、食欲が刺激されている。 気を抜けば自然とお腹が鳴ってしまいそうだった。 「でぁあとは、ちーぅけえきだよっ」 さ行がまだうまく発言できないのか舌っ足らずな口調で言う翡翠が、チーズケーキの乗った皿を持ち上げて笑いかけた。 反対側ではコーラルが柘榴を抱き上げ、スペアリブのつまみぐいの共犯になっている。 「もうー。二人ともめーだよー?」 森沢の膝の上でひなぎくがたしなめるが、コーラルは柘榴とひなぎくを見比べて困ったように笑い、首謀者の柘榴はどこ吹く風だ。 さらにその奥では琥珀がテーブルの端に飛びつき、腕の力だけで自重を支えながら鰹のたたきを狙っていた。 あおひとは視線だけでけしかけたであろう張本人をちらりと見て、諦めたような、どこか幸せそうな笑いを浮かべる。 「……もう。ほんとにうちのおとこどもは、しかたないんだからっ」 ひなぎくの困ったような言葉がやけに大人びていて、男たちは揃って顔を見合わせ、女性陣は大いに笑ったのだった。 この日森沢が夕食を食べすぎたのは言うまでもないことであった。 そしてお腹を抱えてひいふう言いつつ帰宅した彼女を待っていたのは、森沢さん助けてー!をはじめとする大量の仕事のメールであったという。